「公団 金町団地」 建替闘争の記録

1992年(平成4年)から始り、1999年(平成11年)に「協定書」により一応の決着をした「公団 金町団地」(現在:都市整備機構 金町第一団地)の建替闘争の一部を住民の立場からまとめたものです。


「建替と向かい合った日々」

小さな団地の大きな闘い

 「住民運動」

*住宅・都市整備公団の居住者を無視した一方的な「金町団地 建替計画」をめぐり、金町団地居住者/団地近隣住民そして支援の人々が立ち上がり、「住民運動」を展開しました。

一人一人の力(チカラ)は小さいものですが、その力を結集して、少しずつですが、公団の「建替計画」の実態が「強制立ち退き計画」である事を世の中に知らせて行きました。

借家人としての権利を守る、地域住民としての自治を守る。これらの小さな一つ一つの運動が実を結び、1999年3月、公団に裁判を取り下げさせたのです。

どのような、運動をしてきたのか。
裁判対象の1名であり、「金町団地自治会 建替対策委員会」のメンバーの中心となって活動された「吉澤 礼子氏」のまとめによりご紹介します。



住民運動と共に発展した金町団地の闘い 

金町団地  吉澤礼子

1999年3月31日、長期に渡った『建替闘争』が、公団の裁判取り下げ、「協定書」を結んで終結しました。

住み慣れた、この地を追い出されるか、住み続けることができるのか、まさに生きる権利をかけた闘いでもありました。  

私たちは、巨大な怪物(公団=建設省)を相手に、自治会に結集し、近隣住民をも巻き込み、多くの皆さんの応援を受けて今日を迎えることができたのです。

勝訴の大きな要因にもなった、住民運動をここに書き残します。



T.【武器は団地紙〔広報・金町団地〕・機関紙〔こぶし〕】

− 広報・金町団地 −

我々には何もない、あるのは信頼し合おうとする仲間意識だけです。仲間意識を崩さないためにも、建替対策委員が知り得た情報は逐一、広報「金町団地」で流しました。

夜中に資料や、臨時ニュ−スを配布したことも数回ありました。だれもが同じ情報をもち、各世帯の判断材料にする、これがねらいでもあり、意志統一の要でした。

発行し続けているうちに分かってきたことですが、この団地ニュ−スをしっかり読んでいたのが、公団内部の人たちだったのです。居住者間の意志の強さを知り得る情報源になっていたことは、結果として私たちには好都合でした。

− こぶし −

1994年9月30日を境として、公団から「住宅明け渡し」の提訴を受けた15世帯と、そうでない世帯とに分かれてしまいました。裁判当事者になった世帯で『居住権を守る会』を設立しました。『居住権を守る会』と並行して直ちに「『居住権を守る会』を支援する会」が団地内外の人々により、月一口300円の会費で結成されたのです。「『居住権を守る会』を支援する会」の設立目的は3つありました。

   1.裁判当事者を孤立させない。

   2.広くこの闘いを世間に知っていただく。

   3.活動資金源をつくる。

この目的を果たすためには教宣活動は不可欠なものです。機関紙を毎月1回発行することによって会員さんに情報を流し、我々の運動を知り支援を強めていただきました。『こぶし』命名の由来は、拳を握るの「こぶし」、こぶしの花の「こぶし」両方に通用させる意味合いがありました。時には怒り、時には闘いの中でも心おだやかに、2つの心境で歩めればいいとの想いがながれていました。

この『こぶし』を編集から印刷まで一手に引き受けて下さったのが、家庭の事情で金町団地から転居なさっていた小嶋さんでした。

定期発行が続いているおかげで「“こぶし”が届いて会費支払いを思い出した」と届けてくる人、振り込んでくれる人などもいました。

活動資金源としても大変助かりましたが、私たちの行事や、集会をもつ度に、この『こぶし』だけの情報で駆けつけて下さった方が沢山いたということです。

しっかり、情報伝達の役割をこなしてくれました。



U.【大きな集会でパワ−をつける】

「土地の有効利用を図る」「国策で決まったこと」と一方的に公団から押し付けられた『建替事業』を私たちは許す訳にはいきません。

金町団地は当初二つのスロ−ガンを掲げました。

  1.一方的建て替え反対!

  2.みんなが住み続けられる金町団地を!

   そして運動が発展し近隣の皆さんと統一できたときに三番目の柱に

  3.近隣社会と共存できる金町団地を!

スロ−ガンのみで終ることがないように、体勢に応じた幾つかの集会を持ち成功させてきました。

  (1) 『住まいは人権 9・4集会』

初めての大々的な集会は、1994年9月4日、原田小学校の体育館に500名の参加者が一同に集まり、「公団の一方的通告による建て替え反対」「住民追い出しの建て替えを見直せ」と、金町団地住民は勿論のこと、他団地の代表者、民主団体から怒りの発言が続きました。    

この集会で「建て替え」に対しての決議文書を提案し、満場一致で採択され後日公団総裁に提出しました。

集会終了後、「みんなが住み続けられる金町団地を〜」のシュプレヒコ−ルのもとデモ行進をして散会し熱い一日が終わったのです。

この集会を成功に導いてくれたのは、金町駅前団地、金町第2団地、金町5丁目団地の自治会長さん、青戸団地の林さん達が実行委員会を組織し『住まいは人権』の立場で念入りな下準備をして下さったおかげです。

移転期限日まで1ヵ月を切ったこの時期に、この集会の成功は我々居住者に多大な勇気を与えてくれました。

  (2) 「一方的建替に反対する4・21抗議集会」

1994年9月30日、公団の決めた2年間の話合い期限が切れました。結果的には15世帯がいずれ公団から裁判という形で提訴されることも辞さない覚悟で『一時使用賃貸借契約書』に捺印をしませんでした。

自治会は即、臨時総会を開き「捺印した世帯、未捺印世帯と分かれても、今後も共に手を携えて引き続き一方的建て替えに反対する」、いうことを決議しました。

一方、団地に隣接する多数の世帯は、11階もの高層住宅建設は、日照や風害などで生活権を脅かすとして『金町団地建替の高層化に伴う生活環境を守る会』を設立し、階層引き下げの要求運動を開始していました。

このように団地の内外から反対運動は強まりました。私たちは常に「誠意ある話合い」を要求していたにもかかわらず、公団は「建替は決まったこと」として、突如1995年7月27日何の予告もなく、ガ−ドマン数十名を引き連れて解体作業につながる『工事管理事務所』を設置するという暴挙に出てきたのです。

この事務所設置の阻止行動は数日間に渡って続きましたが団地住民と近隣住民が一体となって押し返すことができました。しかし、いつ又来るかと油断はできませんでした。そんなおり、公団は東京都に対して建築確認申請にあたる『計画通知書』を提出していることがわかりました。

あまりにも理不尽で住民無視の公団の姿勢を広く世間に訴えると共に住民の結束を固める目的で『4・21緊急抗議集会』を団地の公園で開催することにしたのです。

決行すると決めてからの準備期間は1ヵ月足らずでした。寝食を忘れての多忙な日が続きましたが当日は、広い公園が支援の輪で埋めつくされ怒りの抗議集会となりました。この様子は、その日の夜の報道ニュ−スや翌日のテレビ、新聞に取り上げられ私たちの目的を達することができました。

この集会で

   1.住都公団は、東京都に提出した「計画通知書」を取り下げ、現「建替事業計画」を撤回せよ。

   2.住都公団は「建て替え」について、民主主義のル−ルに基づき、団地及び近隣住民と納得のいく話合いを実行せよ。

の2項目に絞った集会決議文を採択し公団に突きつけました。

この頃から『小さな団地の大きな闘い』と自他ともに思えるようになってきたのです。

 (3) 「11・15 公団本社前抗議行動」

春に「4・21抗議集会」を成功させ、運動を継続させている中、公団の高家賃問題に社会的批判は高まる一方でした。新設団地は空き家続出で税金の無駄使いとの世論が沸きあがりだしたのです。世論の批判にも押され、各地でおきている建て替え反対運動により住都公団は新設団地及び新規建設予定団地の家賃の平均20%引き下げを発表せざるを得ませんでした。

しかし、これでも高層、高家賃には変わりはありません。まだまだ住み続けられる家賃にはほど遠いということを“公団総裁にキッチリ届けよう”と公団本社前抗議行動を決行することにしたのです。日常的な活動では、居住者集会や公団交渉、裁判傍聴、東京都や葛飾区への自治体要請行動等、多忙な時期に1年間に二つの大きな集会を持つことは大変の一言につきますが、ここが天王山と腹をくくった決断で九段の公団東京本社に出向くことになったのです。

11月15日の当日はバスを一台貸切り、近隣の皆さんと共々ゼッケンを胸に付け、公団総裁に宛てた「金町団地建替に関する要請書」を携えて九段に向かったのです。会場となる本社の敷地には我々が用意した街宣車が待ち受け、100名を越える支援者が続々と駆けつけて下さっていました。

街宣車の上では次々と怒りの発言が続き、その間に代表者が本社建物に入り要請書を突きつけ「一方的な押し付けの建て替えはやめて下さい」と要求していたのです。

その結果、『階層も含め、計画の押し付けはしない』という約束を取り付けることができたのです。その後の交渉でこの公団の発言は非常に有利にはたらきました。

 環境を破壊し、“地域をバラバラにして税金の無駄使いをしてまで誰も住むことのできない空き家をつくるな”誰もがもつ共通の叫びが九段の空にこだましたこの集会が私たちの運動の頂点だったのではないだろうか。今にして思う実感です。

ただ、残念なことは、この集会準備は勿論のこと建替運動に全力を尽くして下さっていた斉藤建替対策委員長が、決行日5日前の会議の最中に倒れてしまったことでした。その後、入退院を繰り返していた斉藤さんはこの後に続く「協定書」調印まで委員長として金町団地の代表者の役割をしっかりこなしてくれたことを報告致します。



V.【親睦会で交流を計り明日の活力に】

1994年9月30日の「決断の日」を境にして金町団地は大きく変わりました。

まず、裁判当事者である『居住権を守る会』ができると同時に『守る会を支援する会』が団地内外の人たちで結成され、弁護団もできました。さらに近隣町会の人たちは『金町団地建替に伴う生活環境を守る会』を作り沢山の人たちが係わるようになってきたのです。

公団を相手に闘っているわけですから、苦しいことはあっても楽しいはずはありません。でも“どうせやるなら楽しくやろう”という意味合いもあって、年に数回関係者が一同に集まって「親睦会」を行っていました。

  (1) 新年会、忘年会

その年によって新年会、忘年会に変更はありましたが金町団地集会所で開かれる宴会はいつも爆笑につぐ爆笑でした。弁護士先生方の芸達者には驚かされたものです。特に金先生には「弁護士にしておくのは勿体ない」という声が上がったほどでした。さらに近隣の檜垣さんの“山手線口上”は毎回趣向を変えての出し物で楽しみの一つでした。そして、最後には今年も頑張ろう、来年も頑張ろう、で散会したのです。

  (2) お花見

どのような結果で終わるかは別として必ず「建て替え」をする日はやってくる、団地公園の桜はいつまで見られるのだろう、と哀愁に近いものがありました。「この桜を残そう」がキッカケになり毎年『花見の会』を催すことになりました。

日曜日の昼下がり、前半は弁護士と「守る会」の人たちは会議、その間に皆さんが準備をして宴会の支度ができる。花見の会がいつの間にやら“花より団子”になっていてほろ酔い気分になってくる。

固い話もなく、和気藹々と談笑の輪ができて交流の場になり楽しいひとときを過ごせた一日になりました。

  (3)納涼ビァパ‐ティ

★不当に提訴された裁判には必ず勝利したい、という願いは裁判当事者だけではなく、団地居住者の願いでもありました。

第1回目の口頭弁論(1995年9月1日)を前に打つべき手は全て打つ、という気構えで連日多忙な日を弁護士先生方や近隣の方々と共に送っていました。

「みんな疲れているのでチョット一息入れようよ」ということになり、梅雨も明けた7月23日団地公園内でのビァパ‐ティ‐を計画したのです。

当然のごとく関係者一同が集まり、タンクの蛇口から流れる生ビ−ルに堪能し、枝豆をつまみながら底ぬけに明るい、顔、顔、顔。

「サァ、また明日から頑張るぞ」と心身共に疲れきっていた身体に活力をつけた真夏の夕べになりました。

この日から数えて4日後の早朝、何の前ぶれもなく建物解体工事作業に入ろうとした公団の突入を阻止できたのも、納涼会でもらったエネルギ−が蓄積されていたからかもしれません。

★次の年(1996年)は夏の終わりの8月31日に今度はみんなの要望に答える形で開かれました。この年は、図らずも金町団地から出て行くことを余儀なくされた方々もお招きし懐かしい顔も揃ったのです。

そしてもう一人、誰もが驚いた参加者もいました。私たちの交渉相手である公団東京支社の井上改善調整課長が受付に立っていたのです。「とうして? なぜ?」という雰囲気が一瞬流れました。実は「裁判当事者も含めて組織している『建替対策委員会』とは正式な話合いしない」と公団はかたくなに拒否し続けていました。ところがこの年の人事異動で転任されてきた井上課長は「過去のことはいざ知らず自分としては自治会の皆さんとの話合いを望んでいる」との発言があったのです。「それなら、8月末に納涼会がありますからよかったら来て下さい」と軽い気持ちで誘っていたのです。本当に来てしまった、という感じでした。

当日の井上課長は、弁護士の先生方、近隣の皆さん、自治会員の皆さんと和気藹々と談笑をしていました。

その後、東京支社との交渉にわざわざ新宿区まで出向くことはなく、金町団地の集会所で裁判当事者も含む建替対策委員会を交渉相手と認めた前向きな「話合い」が持てるようになりました。一歩前進したキッカケをつくった『納涼会』になりました。



W.【文化行事・マルセ太郎 講演会】

1992年7月に「建替指定団地」とされてから7年、裁判闘争に入って5年、いつまで続くのか、終わりのないような旅のようなものでした。多かれ少なかれ疲労の色は団地内に流れていましたが、弁護士や、対策委員会の中では“闘いは終盤に入った”という読みはありました。どのような結論が出ようと「やるだけのことはやりきった、あとは建設省と公団の出方次第というところまで相手方を追い詰めた」という確信はありました。最期の一踏ん張りで‘みんなの元気が出る行事、お世話になった皆さんに喜んでもらう行事’を計画し『闘いも文化』と位置づけしました。

招く文化人は、スクリ−ンのない映画館で有名なマルセ太郎さんで、金弁護士のお父様でもあります。彼は笑いの中にも社会的風刺を込められる数少ない芸人さんだということは知る人ぞ知る有名な方です。彼は私たちの趣旨を理解して快く引き受けて下さいました。

当日(1998年11月22日)、金町地区センタ−の5階ホ−ルは立ち席が出たほどの大盛況です。レパ−トリ−の中から一本の映画を一人で演じる『泥の河』をお願いしました。二部構成舞台の前振りで観客を笑いの渦に巻き込み会場を湧かせ、本番の『泥の河』で名人芸を披露する、これがマルセさんのやりかたです。見終わった時に「さすが本物」という感銘を観客に与えたとおもいます。

全ての舞台が終了後に彼はこう言いました。「今の政治は、どうしょうもなくまかせることはできないが地域で頑張っている庶民には希望がもてる」。この上ない嬉しい言葉で励ましていただきました。

この日から数えて約50日後に公団から『解決』に向けての話合いの提案が出されようとは誰も思っていないことでした。



X.【小さな団地の大きな闘い】

1999年の歳も明け正月気分が抜けきらない1月の上旬に1本の電話で急激な変化が生じました。「金町団地の一部建て替え、一部残しの許可がおりた、ついては収拾に向けての話合いをしたい」、公団からの連絡でした。

この日から、弁護士先生方と対策委員会は最終局面に向けて精力的に会議を重ねました。そして公団との交渉にのぞんだのです。

結果、私たちの要求である

  1.「一部建て替え、一部残し」、

  2.公団の裁判取り下げ(裁判当事者には何のハンディもつけない)、

  3.協定書をもって収拾する、 

  という条件を勝ち取ることができたのです。

1999年3月31日、東京支社の会議室で23区自治協の高橋会長立会いのもとで、金町団地自治会長と対策委員長、守る会代表、弁護士、住都公団、四者の協定調印で「金町団地建て替えに伴う運動」に区切りがつけられたのです。調印後に東京支社の吉沢改善部長はいみじくも言いました。

「最初のボタンの掛け違いで不幸なできごとになった、今後の『建替対象団地』は居住者の意見をよく聴いて合意できた時点で『建替指定団地』にしたい」と。



− 報告集会・解散集会 −

建替闘争に係わる、長い長い道程に一応の終止符が打たれたとき、私たちは最後の行事となる「報告集会」と「解散集会」を開催することにしました。      

5月9日、金町駅南口にある二葉会館に於いて盛大に行われたのです。午後6時から始まった集会には100名以上の方々がそれぞれの想いでテ‐ブルに着きました。

鳥生弁護団団長を筆頭に7名の弁護士、各団地の皆様、近隣町会、支援する会、民主団体、金町団地居住者、転居された方々、この顔ぶれを見て本当に私たちは沢山の人々に守られてここまでやってこられたのだと改めて感謝の気持ちを感じました。

飲食を楽しみながら、各代表の言葉をいただいた後、最後の式典に入ります。

公団の裁判取り下げ、協定書調印で決着したことに伴って三つの組織が皆さん立会いのもと、解散式がとり行われました。

裁判当事者の『居住権を守る会』、『弁護団』、『居住権を守る会を支援する会』が発展的解散を宣言しました。

勝利に結びつけた金町団地の闘いの要因は優れた弁護士先生方に恵まれたことを一番に上げることに誰も異存はないと思います。

その主任弁護士、田中先生の挨拶で「行政相手の闘いは法廷の中だけで勝利に結びつくことは非常に困難なこと、法廷外の運動が大いに物をいう、道筋を立てて金町団地はよく頑張った」。“自治を守る”ことを基本に据えて沢山の人々の力を借りた運動が実を結んだ結果が形となって現れた集会でした。

三つの組織は解散しましたが、本当の意味での「建替事業」はこれからです。

今までの教訓を生かして、1999年10月に近隣町会も含めた『工事協定書』を公団と結ぶこともできました。

「自治を守る」ことは民主主義の根本であること、生きる権利は自分たちの手で勝ち取るもの、ということを学んだ7年間でした。




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